「猫の事務所」宮沢賢治

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 そもそも何故、童話より賢治の伝記を先に読んでいたのかといえば、他に読む本がなかったのである。
 生家には本がほとんどなかった。本を読む習慣のある大人がいなかったのだ。習慣がないので、子供に買い与えることもない。十代を過ごした町には書店も、図書館もなかった。中学校の図書室は、八十年代に流行した校内暴力の温床になる、などの理由で施錠されていた。まともにたくさんの本に出会うのは高校に入ってからになるが、放課後は家事があるためそう長々と図書室の住人でいることもできなかった。伝記話はそれ以前の話になる。
 家に唯一あった書棚は、昭和の一時期流行した百科事典(どこのものだったか覚えていない)のためのもので、棚の半分ほどのスペースは常に空いていて、ドライフラワーや花瓶、土産物の陶器の人形などが置かれていた。
 私と三歳年長の兄の小遣いが本を買えるくらいの額になるまで、長らく我が家で読み物と呼べるのは、その名も知れぬ会社の百科事典と、伝記全集だけだった。何か読みたくなった時、仕方がないので、伝記を繰り返し読んだ。ラインナップは秀吉、家康、ヘレンケラー、湯川秀樹、野口英世、キュリー夫人、宮沢賢治、などなど。よく考えたら伝記ばかり読んでいる子供ってどうなんだろう、と今でこそ思うが、当時の本人達にとって、それはそれなり切実なことだった。兄と私が小遣いからこつこつ出費して買い出した本が次第に本棚を占めるようになるが、ニセコのスキー場の傾斜より緩やかなぐらいのスピードでしか本は増えない。兄の買った赤川次郎や星新一を舐めるように読み漁り(買った本人より先に読んでよく喧嘩になった)、それらもまた繰り返し繰り返し読んだ。同じ本を何度も読む、というのはひとつの性癖みたいなものだと思っているが、それはこの頃形成されたもので、今もちょっと残っている。

「猫の事務所」といえばますむらひろし氏の漫画がある。涙をためたかま猫の表情がいとおしい。

 また、宮沢賢治といえば多数の絵本が出版されているが、なかでも私は畑中純氏の「どんぐりと山猫」が好きだ。文字もすべて木口木版で作られた本書の迫力はぜひ一度ご覧いただきたい。