「無伴奏」岡田幸生
→本編はコチラ
ネットニュースで見た限りなので詳しいディテールがわからないが、あるタレントが「男性の部屋にみりんがあったら女がいると思え」みたいなことを言ったらしい。
それでは「にがり」があったらどうなるのか。「にがり」ですよ。豆腐をこしらえちゃうあれですよ(ちなみに私は買ったことないです)。
現在は富山在住の岡田さんが、かつて在京の頃、歌人や俳人が集まって、岡田さんの一人暮らしのマンションで宴会を催したことが何度かあった。
岡田さんの部屋はミニマリストなどという言葉が市民権を得るよりずっと以前から、たいそうミニマムだった。キッチンもしかりで、必要最小限のものがシンプルに整えられたシンクまわりを、女達がわいわい言いながら眺めていたら、どこからか忽然と出てきたのだ、「にがり」が。
そこにいる誰もが「いやらしい!」と叫んだ。塩化マグネシウムがなぜそんな謂われのない責めを受けなければならないのか。見つけられたその場所が岡田幸生の台所だから、である。
「無伴奏」の俳句には、一見散文のようでいて、独特な凹凸を撫でるが如き声調がある。もちろんそれは自由律俳句の声調だから、というのもあるが、それと共に岡田さんの内在律みたいなものが影響しているのだろう。
見ているところを奥のミラーで見られていたか
(見ている/ところを/奥のミラーで/見られていたか)
薔薇のカップの紅ふいている
(薔薇の/カップの/紅/ふいている)
あめがふればぬれてかえる
(あめが/ふれば/ぬれて/かえる)
大雪のなか列車よくきてくれた
(大雪のなか/列車/よくきてくれた)
語順の斡旋によるつづら折りのリズムが意識の流れを生み、支えている。この季節ですよ、と前置きがあって、季語で断って入ってくる世界ではない。するっと沼に引きずり込まれるがごとく、その声調にいざなわれてしまう。たいへんイヤラシイ句なのである(褒めています)。
そんな岡田俳句はつるつるしたまっしろな紙より、陰影のある、手触りのある紙がよく似合う。本文紙にマガジンテキストを選んだ所以である。