「春」安西冬衛 ×「海峡」辻征夫

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 この「本文が透明な本」を作るにあたって、なぜか、ほとんど強迫観念的に「持ち運びができるような箱に入れなければならない」という思いがこみあげてきた。  くるみの上製本とほぼ同じように、表紙の背と平(ひら)に題と作者名を入れ、そのまま立てたっていいのに、である。
 蓋をつけて開け閉めできるようにしよう——と、まずできたのはこのハイクラウン・チョコレートのようなものだった。スキバルテックス風の表紙に、内張は完成品と同じ「GAコットン」という起毛紙に似た風合いの特殊紙の、薄グレーのものをひいた。本を出し入れするのが触感として気持ちいい。

 しかし納めて見ると、本の「本っぽさ」がますます失せた。天地小口が「動かない」本ゆえに、半分顔をのぞかせた姿がお菓子みたいである。
 平同士をくっつけた二口のスリップケースにしようか、帙にしようか、二冊いっぺんに入るスリップケースにしようか…などと思案が続き、結果、夫婦箱に思い至った。夫婦箱とは蓋と底がつながった、収納部分を蓋がすっぽり覆う形状のものをいう。表紙全体が見えるのも、そのほうが思わせぶりにならなくていいような。


 ちなみに、この作品を作る手始めとして、自分の作品『透片浮語』というのを作った。
 以下の画像に両者を並べてみた。3まわりほど大きさが異なる。同じ造りのものでも、大きさによって印象がかなり変わる(…と、本人は思う)。
『透片浮語』のほうは自作の俳句を三行表記にして入れた。小さめの消しゴムぐらいのものなので、ちょっと標本めいている。

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『俳諧辻詩集』の「あとがきのページで」のなかで辻征夫は、

 いったいなぜ俳句に興味を持ち、句会を開き、それが長続きしていっこうに衰える気配を見せないのか。それは私たちの句会が、遊びごころで始まり遊びごころを保っているからだろう。こころしてこころを開き、探求し、そして楽しくなければやる価値がない。私たちはもともと、重く深刻な顔で文芸を語るのがいやなのである。「遊びごころと本気」

と書いている。
 製本を「紙を綴じること」と規定し、本を「紙が綴じられたもの」と規定するなら、今回作ったものたちは本と呼ばれることのない、反則的なものだろう。それでもこの二冊を本と呼ぶことを、その遊びを、詩人たちは草葉の陰でひっそり笑ってくれているのではないかと、いかにも都合良く考えることにした。